御由緒

 烏子稲荷神社は、第50代桓武天皇の御代延暦2年(西暦783年)に公卿の藤原金善という人が京都 藤ノ森神社の稲荷神の御分霊をこの地に勧請したのが始まりとされ、歴史ある神社です。
この地は、古くは青木庄のうちの一区域で須苗郷と呼ばれ、須苗子、烏子などとも記され、現在の六郷・長野地域の総称です。そして、烏子稲荷神社はこの須苗郷全域の総鎮守として千二百年余りの間、崇敬されてまいりました。
戦国時代には、武田信玄公が箕輪城攻略に際し、戦勝祈願し宿願を果たしました。
この時より武田家家臣の浦野家、新井家とは縁ができ、現在上豊岡在住の浦野家御一統は、450年来の今も毎年初午祭典には代参が続いています。
また、江戸時代には、徳川家より代々御朱印を頂きました。
社殿西側には、高崎城主だった安藤対馬守が参詣のおり、お手植えしたという「逆さもみじ」があります。この木は、逆さにさしたのに根付いたので生命の強い木とされ、所願成就の所以となっています。
六世紀半の古墳(円墳)の上に社殿は建てられており、巨大な石で築かれた石室が本殿の裏側にあります。
この古墳は北向きに開口する横穴式石室であり、六世紀前半における横穴式石室の受容期を代表する重要な古墳として、平成3年3月1日に市指定史跡に指定されました。

御祭神

烏子稲荷神社に祀られている神様

御神徳

病難除去・水難・火難・自動車などの厄除けや地鎮祭、五穀豊穣、縁結びなどあらゆるご神徳が賜れるといわれています。

神聖な烏子神社